美術館へ行こう2 芸道の大先輩 [師]と呼びたいお2方をご紹介
- MSD 指導部
- 2018年4月20日
- 読了時間: 7分
芸道の大先輩・師と呼びたい画家 1
『画家たちの王にして、王の画家』
ペーテル・パウル・ルーベンス1557~1640
ネロがパトラッシュと最後に見た あの絵を描いた高名な画家

『画家たちの王にして、王の画家』

ルーベンスがこう呼ばれた理由は、
・才能がずば抜けていた
・地位と名誉を得ていた
・家族に恵まれていた
・博識&優美な物腰
&冷静な判断力によって、
王様から弟子までが彼のファンになった。
・「ルーベンス工房は必見」と評判されるほどのコレクション。
世界中から集めたアンティーク。蔵書には建築学・動物学・植物学 etc . . .
それだけではありません。
14歳で弟子入り修行を始めた彼の成功は、彼自身の叩き上げでした!
親や親類の縁故(コネ)は無かったのです。
ルーベンスは
中世のシンメトリー画法から脱しました。バロックの表現の自由な動き!
ルーベンスの絵は、欧州各国の王侯貴族の館や教会を飾ったといいます。

当時、
今のベルギーはスペイン統治下でした。加えてイギリス・フランスとが複雑に絡み合っていて . . .
ルーベンスの国 ネーデルラントも南北に分かれてしまって・・・
まさに一触触発
The situation is very explosive

この難局打開の外交は
容易ではありません。
その大役に
ネーデルラント大公が選んだ人物は . . .
『世界的な名声があり、
政治的野心の無い人物』
宮廷画家 ルーベンス!
ルーベンス師匠は
イギリス、フランス、スペインを渡り歩きました
粘り強く交渉を進めつつ、
各国の王や王妃への作品を描いていきました・・・
そして、ついに、
ルーベンスは『絵画外交術』で、
ネーデルラントに平和をもたらしたのです!
才能を 世界の平和にまで役立てたのです!
ルーベンスの作品は、
当時の生活美術感を豊かにしてきたばかりではなく
世界的な平和を実現させる力があったということです!
これを羨ましいと思わないアーティストはいないでしょう?
才能は授かったもの
「なぜ授かるのでしょう?」
才能は、よく話題になりますから、
なんとなくであっても、考えた事は誰もがあると思います。
キャリアを重ねるうちに、ある考えに至りました。
才能とは、
『誰かに・社会に・世界に役立てなさい の指令』
. . .ではないでしょうか?
(生れてきた使命や宿題と考える人もいらっしゃいます)
実際、我々の毎日の暮らしのすべては
各人1人ずつが授かった才能を活かすことで成り立っています。
衣食住・医療・サービス・もの作り . . .
全てが 誰かのおかげなのですね!
それぞれを思う事も、より良く生きる生き方と言えますね。
優れた芸道の先達は異口同音におっしゃいます。
「良い芸を身に付けたければ、良い暮らし方をせよ」
(贅沢しろの意味ではない事は 賢明な読者にはお分かりですね)
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芸道の大先輩・師と呼びたい画家 2
オーギュスト・ルノワール 1841-1919

有名すぎる印象派の巨匠。
アカデミックでなければ認められなかった当時のフランス画壇に、
全く新しい風を吹き込んだひとり。
プロデビューは陶器の絵付職人。
その腕前は周囲から
『ムッシュ・ルーベンス』と絶賛。
最初は、全く認められず、
生活が出来ない状態が続きました . . .
ある手紙:
『今日もいろいろ描き方を試してみました。
今日はパンを一切れ食べられただけマシです』
こんな毎日でも 自分を信じて踏ん張り抜いた先輩です!
『陽光の中の裸婦』

木洩れ陽が女性の肌の上を色とりどりに遊んでるような光の表現は、
全く新しい解釈でした。が、当時は酷評。『女の肌は腐った肉ではない』
それほど、アカデミックが権威でした。
自分が、そう見える景色や色を信じて、
もっと研究!もっと研究!と進み向上する。
見習いたい気骨の強さです。
『桟敷席』コートールドコレクション

日本で観て うっとりしました。
あなたもいつか、実物をぜひ!
ニニの胸元が眩しくて、
キレイだなぁと素直に思う
さすがの作品です。
『ムーラン ドゥ ラ ギャレット』オルセー美術館
Bal-du-Moulin-de-la-Galette

手前の平和で楽しそうな人々は
アーティスト仲間とお針子姉妹たち。
ルノワール師匠が、自分のモンマルトルのアトリエの庭で描きました。
(奥のほうだけが 店の実景スケッチ)
実際のムーランは(遅い時間は特に)男女のアヤシイ感もあった店。
こんな健全ムードではなかったでしょう場所は しかし、
庶民が安価で気晴らしできる人気の場所でもあったそうです。
ヨーロッパには今でも貴族が居ます。
当時の身分格差・生活格差は大きかった。
当時のパリは衛生観念が乏しく、町にはコレラが蔓延。
孤児も増えていく・・・
ルノワール師匠は、
自分を贔屓にしてくれる上客(パトロン)に相談しました。
『シャルパンティエ夫人とこどもたち』
リッチさふんだんなお宅ですね子供もかわいい!(センターは男児)

「孤児院をモンマルトルに作りたい」そして、
チャリティーも兼ねて大作に挑んだのです!
それが『ムーラン・ドゥ・ラ・ギャレット』
実の息子で映画監督のジャンが
著書に残してます。
『チャリティーの試みは大成功だった。父は作曲もした。
参加者に配る帽子には赤いリボンを巻いた。
ミュージシャン達の演奏に楽しいダンス・・・』
そして、シャルパンティエ夫人の助力(基金)もあり、
孤児院は出来ました!
『人生には嫌な事がいっぱいだ。
我々がわざわざ描く必要は無い!』
『絵とは美しく、好ましく、
その中に入っていきたいと思えなくてはいかん!』
昨今のヒドくおぞましい描写は、この言葉で改めたほうが良い!
「見えるものが与える精神への影響」は決して小さくないのだから。
ピエール・オーギュスト・ルノワール 『レースの帽子の少女』1891年

けぶるように揺れる空気が優しい。
少女には ちょっぴりおとなのムードも。
風景よりも人間を描くことを好み、
こどもたちに優しかった
ルノワールならではの作品ですね。
『悲しげな絵を、生涯 描かなかった巨匠』
晩年のルノワール

リウマチが悪化・・・。
指が拳型に固まってしまった。
手に絵筆をしばり付けてもらって、描いたそうです。
それでも
ルノワール師匠はぶれなかった!
彼の家に残された車椅子は、本当に小さかったです・・・。

彼が守ったオリーブの樹をどうしても見たくなり、
地中海の急行に乗って、彼の最後の家を訪れました。
途中、
にゃんこの道案内を受けつつ、到着したら・・・

大地からうねり上がってきたような
オリーブの大樹!
巨大!!
これらが、ゴロゴロある広大な庭!
ルノワールがこの土地を買った経緯;
当時、アメリカ人が その土地を買って住宅地にする計画があった
それを聞いたルノさんは激怒 『わしが買う!』
ルノワールは
身なりにかまわなかったそうです(北斎に似てますね)
でも
家族から愛されてました。
『ガブリエルとジャン』
人形遊びをしてもらってるこの赤ちゃんが、
後に 大映画監督になります。

ある日。少年ジャンに、
同級生の金持ちの息子と取り巻き達がカラんできました。
『おい、コレやるからおまえの親父に服、買ってやれよ』
ポケットからコインを出したそうです(憎らしさ満載なガキ)
ジャンは
コインを 受け取る代わりに
『鉄拳を食らわしてやった』
父、愛されてますね❤️
アリーヌさんです。

ここはイタリア。
気骨あるルノワールでも、一時、描けなかった時がありました
彼は はるばるイタリアへ出向き、
ラファエッロら巨匠たちの絵画を観て感嘆し、
気付きも得て、次第にヤル気 復活!
お手紙にこう書いています
「何かを始めます」
すでに人気画家になっていたルノワールでさえ
こうだったのですね
そして
アリーヌ・シャリゴを呼び寄せたそうです
モデルとしてだけならイタリア美人を雇ったでしょうけれど
会いたくなったのでしょうね
この絵のアリーヌシャリゴのリラックスさから
二人の信頼関係が伝わります
このときは『ハネムーンみたいだったの❤️』らしいです。
この後、夫婦となりました。
アリーヌは
もともと、ルノワールの前でしかモデルをしない純朴な娘でした。
(モデルは裸体になりますので)
ルノさんはいろんなタイプにモテたようですが、
妻を選ぶ目は確かでしたね。
(ジャンをあやしてるガブリエルはアリーヌの従姉妹です)
『芸は人』
芸術は
作品だけ観るよりも、
人となりを知り、人を感じる事が大切と考えます
時代の逆境や状況の中を、どんなに頑張ってこられたか
それを知ることは、励みになりますし、
学ぶこともできます
時間を作ってでも
あらゆる素晴らしい芸術を観に行くことを勧めます。
努めて良いものを求めた経験は、
必ずあなたの表現力につながっていきます
音楽・映画など
見聞きできるものが足りてない場合、
その人の表現も同じように足りない。
そのケースは
残念ながら、よく見てきた実例です
[記事の無断転用、しないでね。プロは「礼義」]
MSD 指導部
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