京都五山送り火 GOZAN OKULI-BI KYOTO
仏教行事 京都五山送り火
礼節ある素敵な人こそ!和でニコニコ暮らせる日々がもたらされるよう、仏さん神さんに祈ります
亡き人の供養のための万灯籠が、送り火のルーツと考えられています
送り火には、無病息災、村内安全など各方面から見た【安全】を祈った先人たちの思いが、毎年の送り火に込められてきたのは、想像に難くありません
「大きく炎を灯すことによって、あらゆる悪いことを消しさる」
ほんまに 叶ってほしいことです!
見る側にも、特別な思いがあります・・・
五山送り火
最初に如意ヶ嶽大文字が20時に点火され、順に5分ごとに点火がリレーされます
送り火は「いつから始まったか分からないくらい昔から」行わなれてきました
如意ヶ嶽 大文字火床にて 読経と点火スタート
大文字は特別な気持ちになります
迎え火から始まる 洛中の盂蘭盆(お盆)
7〜10日 京都では、お精霊さん(おしょらい。ご先祖や家族の霊)を迎える迎え火が各家庭で焚かれます 迎え火 先祖の霊を迎えるために門口で焚く火。江戸時代から行われ,麻幹(おがら)・麦わらなどを炊きます(戸建ての家なら可能) キュウリに足をつけた馬(スピーディに戻って来て、の気持)と、
ナスに足を付けた牛(帰りはさっさと言ってしまわんとゆっくり行ってほしいの気持ち)が飾られます・・・先人の、気持ちのかいらしさ💗(可愛らしさ)
大日如来の「大」説もありますし、他には、
「大」は分解すると「一」「人」
(生まれるも、逝くも一人・・・と言われるからでしょうか?)
わたくしは、生まれる時に、お母さんの必死の頑張りなくして、産まれることは不可能と思いますので、大は、一人、やのうて、「生を全うした一人前」と解釈してもええのやないかしら?
立派な生き方をなさった方は、戒名に大が付けられます 社会的知名度ウンヌンには関係ありません 人として嫌なことも悪事もせず、苦労を垢にせなんだ方、人によぉ(良く)しなさった方なら、皆、「大」!! 人は、逝く時にご本人の真価が見えます・・・
これは、ほんまなんですよ 2番目 松ヶ崎 妙(103基)と、法(63基)
例年、妙法の火床では、左斜め前に見える大文字の点火を、保存会の皆さんが待っていて、「点いた!」を合図に、自分たちの点火にかかります(この時の様子がカッコイイの)
そして 5分後の 20時5分に、間違いなく「妙」「法」が点火されるのです
「昔は右から左へ書かれていたのに、なぜ今風?」
気づかれた方はいらっしゃるでしょうね 「妙」鎌倉時代らしく、「法」は江戸時代が追加されたからです 妙を最も西の山に作ったので、左の山しか空いてなかったと聞いてます 五山それぞれに保存会があります 1年を通じて、山道と樹木の整備がされ、草むしり、当日までに薪の準備、火床の点検や補修、当日の点火と消火・・・などなど行われます
3番目 西賀茂 船山 舟形は横200m、縦90m 2年間は1カ所のみ点火でしたが、2022は、全79火床に点火!
ここの保存会も 数十Kgもの割木を担いで山へ登ります 7月末には、麓の西方寺にて、保存会の面々が、竹を切り出して松明を作るそうです 当日に各自が持ち場の火床へ持って走る松明が20本も作られました(昨年はたった4本) 保存会では、そのように松明作りのイロハから子供や若手へ継承されてきました(日常的に竹を切り出すことなどありませんものね) その継承のベースが、亡き人への想いによる心の継承なのね これからも、継承は間違いなくされましょう 送り火には、自然と手を合わせますねぇ・・・ 自分たちの先祖へだけではなく、ものすごく多い戦没者へも、災害犠牲者への思いもあります どの人にも、帰りたかった家がありました 会いたかった人たちがいまた お盆にお精霊さんたちが帰ってきて、「またね」って天国へ戻る、その道標として送り火が継承されてきました 今年は、ウクライナを思った方も多かったようです 非道は許せへん!強く思いました!テロの言い逃れもさせまへん! 4番目 大北山 左大文字(金閣寺の北) 1画目48m、2画目68m、3画目59m(如意ヶ嶽の半分サイズ) 2022は全火床53箇所に点火(2年間は1カ所のみ点火)
保存会の各家庭に、担当火床が割り振られているそうで、薪(割り木)の配給を受け取りに行くのも、山へ運んで、受け持ちの火床にキッチリ重ねるセッティングも各家庭によって行われます 割木組みの高さは 火が30分もつよう1m50cm (結構高く積まれますね) 送り火の1週間ほど前の日曜日に、保存会の皆さんは、ふもとの浄土宗法音寺で高灯籠が立てられます 高灯籠は、魂が集まる目印(毎晩、火が灯されます) 当日は皆さん一旦、下山され、夜の松明行列に備えます
大北山 左大文字は、松明行列でも有名ですねー 聖なる火を移した松明を手にして、保存会の方々が山を登る
20時15 (予定)ドラの合図で左大文字点火 点火は筆順でされるのも左大文字の特色 岡本会長さん曰く「20時半ごろが一番きれいに見えますわ」
一人(大)で、経を唱えて (妙法)、 神社へ参って(鳥居型)、船に乗ってあの世へ戻る( 舟形)・・・とも言われます 仏事はお彼岸もありますけれど(宗派はどうあれ)ご先祖をファミリーが一体となって想い、もてなそうと工夫奮闘する時が、お盆かなぁ 「自分は、ポッとカンタンこの世に出たわけやない・・・」 わかってるようでも、日頃は・・・忘れてることもありますでしょ? 先祖を思い出して、自分や家族のルーツを考え、どう生きてきたのかなぁ・・・
恩を新たに想います そしたら、自然と有難さの念が湧きますわね ご先祖さんや新仏さんがどう生きたか、考えたり、思い出話を聞いたり、いろいろ思いを馳せます 確かに居た人々を思うと、当たり前なんかない、人の気持ちと想いに気づくんです 人を知る、と心がニコニになって、暮らしが和になるやないですか! 健康もそうですし、その有り難さ・・・
五山送り火は仏教行事です
人心と社会を良くするのが、宗教の仕事です
それが、普通で、まともな宗教やない? 人や家庭を良くできひんどころか!!洗脳?!壊滅させる?!それ、全部ニセ!ニセです!(宗教のフリする悪い催眠商法団体がいつまでもあるんがあかん、人心なんかあらしまへん!安っい口先に騙されんよう!) 嵯峨鳥居本 曼荼羅山 鳥居型
108基の火床の形は、デッカイろうそくたてみたいです
火の点いた割木の束(20kg)を、走って運んで、ドサっと突き立てるやり方です 「火が走る送り火」と呼ばれる通り、地上から見ていますと、火が自分で走ってるように見えます (見るのはラクですけれど)20kgを担いで 40度の斜面を走るのはぜんぜんラクやないですねぇ 男たちはそれらを2束ずつ、各40Kgを担いで山を登るのです
・・・さぞかし大変、と思われますが、 「松の割木を作るのも、喜びです」(保存会の皆さん談) 108基もありますので、割木、ぎょうさん作らなー! 斧で松を割るのも初体験の若い子が、真摯に仕事していた様子が微笑ましかったわ
鳥居形の松明は、松ヤニをたっぷり含んだ芯に近い部分が使われるのも有名です 鳥居形の送り火の特徴である赤い炎は、松ヤニで高音になるからです 2年間、たった1カ所しか点火できなかった送り火でした(観光客の密を避けるため) 「あの間、規模が小さくなっても、送り火の心は変わらないことが認識できた」
そう言うてはりました 右京の遍照時は、戦禍の多かった都において、奇跡的に無事に残った十一面観音が、平安期から在ります 向かいの曼荼羅山が、鳥居型の送り火の火床 広沢池では、灯籠流しが行われます
昔々は、奈良の都が仏教の都で、京は神さんの都でした
お墓は天皇や貴族のものでしたし、お葬式は仏教でしたので、一般市民は葬祭ができませんでした・・・誰かが、仕方なく?亡骸を朱雀大路の端っこ辺りへ・・・持っていったそうです(全国的に似たことはされてたでしょうけど)それを皆が真似てしまったので、その一帯は恐ろしい場所と言われてしまい・・・(上京の千本ゑんま堂引接寺あたり)
小野篁(オノノタカムラ)さんは平安初期に宮中で要職を歴任したデキる人でした
「元の恐ろしくない朱雀大路に戻したいなぁ」
そこで、神さんの都へ、仏教のお弔いを持ち込む方法として、十王思想をミックスすることを思いつきました「生前に十尊を祀れば死後に良い」
特に、閻魔さんは 人間界の王とされていたので、タカムラさんは、京 初の初の寺に閻魔さんを祀ったのです
(今の千本ゑんま堂の閻魔像は1882に作り直されたもので、当初はタカムラさんが彫ったゑんま像だったそうです・・・応仁の乱のせいで焼失)
小野篁さんは、昼は宮中で働き、「夜は東山 六道珍皇寺の井戸から、冥界へ通い、ゑんまさんの手伝いをしてた」スーパー伝説が残っています(よみがえりの井戸がありますね)
今の世を、ゑんまさんとタカムラさんは、どう見てはるやろか・・・
ええ人と、そやない人の差が、きついねぇ・・・清く生まれたことを忘れさったらあかん、絶対あかんえ!
広沢池は時代劇でもよく撮影されるロケ地です (広い池が映ったら広沢かな?と思ってね)
わたくしも、松竹さんから、朝のロケバスに乗って行って・・・振付が撮影されたのは夕方でした(撮影は待つのが仕事の1つ)
桜の頃の広沢池ロケでしたので、待っていても気持ちが良かったわ
世界も日本も、まだ忍耐と、知恵を使う時が、まだ続くでしょう
あと4ヶ月となった2022年の世界が、良く、良い方へ、流れますよう祈ります そして、 礼節ある素敵な人こそ!和でニコニコ暮らせる日々がもたらされるよう、神仏に祈りおります
日本舞踊artist実乃鈴
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